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動画作成:向田 隆
2012年08月09日
65年ぶりの里帰り ~番外編 イメージ図~
Oさんが描いてくれた記憶地図。
Oさんの頭の中には今も鮮明に子供の頃の記憶があるんだなと改めて感動する
Oさんのこの地図は本当に素晴らしい!!
でも、Oさん、これ描いてきてるんだったら、帰りの列車の中で見せないで先に見せてくれたらよかったのに
Oさんの頭の中には今も鮮明に子供の頃の記憶があるんだなと改めて感動する
自宅周辺の地図
自宅の中の平面図
自宅と松花江
自宅と文廟
Oさんのこの地図は本当に素晴らしい!!
でも、Oさん、これ描いてきてるんだったら、帰りの列車の中で見せないで先に見せてくれたらよかったのに
2012年08月09日
65年ぶりの里帰り その3
今回の参加者が通った小学校に向かう。吉林陽明小学校。
今の吉林九中である。
偶然にもOさん(弟)とKさんは同学年。もしかしたら同じクラスになったこともあるかも。
以前は2階建ての校舎ということであるが、建物は完全に変わっている。
トウさんが、昔の正門に立っていた樹が残っていますよと。
そちらにまわって位置を確認すると、
Kさんが「こちらが正門であれば・・・」と一番気になっている自分の自宅の場所を推測していた。
残念ながら正門の樹の記憶は誰も持ってはいなかったが、小学校時代の友達の話、級長になった話などをされてた。
それから今は児童公園になっている「吉林神社」に行く。
闇市なんか出ていたというOさんのお話であったが・・・神社の面影はもう全くなし。
と思っていたら、
ここはもともと神社だったんだぞ~と頑張って意地で残っている灯篭を発見。
そしていよいよKさんの記憶を辿り、Kさんの自宅だった「吉林倶楽部」を探しに行く。
Kさんから吉林倶楽部はまだあるか?ということを5年前から言われ、中国の現地旅行社に調査をお願いする。
最初の返事はもうないということ。
間違えかもしれないので他の旅行社にも2、3社確認する。どこもないという返事。
5年前、Kさんには残念ながらその様にお返事をした。
その代り、調べていくうちに見つかったH氏という同じ吉林倶楽部に住んでいた友人との再会の仲介をした。
Kさんはそのとき納得したようにみえた。
だけど昨夜の夜食ミーティングのときの話で思った。Kさんは吉林倶楽部の場所まで行って、自分の目でないのを確かめないとあきらめきれないんだな、と。
「庭が広くて柱も素敵で、レストランもあるし・・・いまだに夢に見るんですよ、吉林倶楽部」
Kさんの吉林倶楽部あればいいな、心から思った。
まずは家の近くにあった河南街にいく。この通りは歩行者天国で商店が左右に並ぶ賑やかな通り。
当時、Kさんはお母さんに手をひかれ買い物に来ていたという。
河南街より松花江の方に曲がり、そして最初の角を右に行ったところあたりにある。
河南街を歩く。
そして、左に曲がる。
道幅が当時よりだいぶん広くなっているという。
そして、右に曲がる。
・・・・・
・・・・・
・・・・・
ない。
位置的にはここらへんだ・・・そこには30年前から立っている住宅団地があった。
その住宅団地の広い敷地を考えると、吉林倶楽部はここにあったのではと思う。
その住宅の裏側には映画館があるという。
吉林倶楽部の映画館の位置もその裏側のほうらしい。偶然であろうか?
住宅団地の中を何か手がかりがないか探す。残っている建物がないか探す。
何かあってほしい。Kさんから聞いた、白っぽい建物の何かが。
・・・
「もういいですよ、西山社長。ここだと思います。感じるんですよね、帰ってきたと。ありがとうございます。」
Kさんの思い出の区切りがついた瞬間だったと思う。
記憶の旅は「無くなったことの確認」もある。寂しい確認であるが。
午後からは当時、Oさん家族が馬車で何時間もかけてピクニックに行った「豊満ダム」に行った。
今でもピクニックに来ている家族がたくさんいた。
その4へ続く・・・
今の吉林九中である。
偶然にもOさん(弟)とKさんは同学年。もしかしたら同じクラスになったこともあるかも。
以前は2階建ての校舎ということであるが、建物は完全に変わっている。
トウさんが、昔の正門に立っていた樹が残っていますよと。
そちらにまわって位置を確認すると、
Kさんが「こちらが正門であれば・・・」と一番気になっている自分の自宅の場所を推測していた。
残念ながら正門の樹の記憶は誰も持ってはいなかったが、小学校時代の友達の話、級長になった話などをされてた。
それから今は児童公園になっている「吉林神社」に行く。
闇市なんか出ていたというOさんのお話であったが・・・神社の面影はもう全くなし。
と思っていたら、
ここはもともと神社だったんだぞ~と頑張って意地で残っている灯篭を発見。
そしていよいよKさんの記憶を辿り、Kさんの自宅だった「吉林倶楽部」を探しに行く。
Kさんから吉林倶楽部はまだあるか?ということを5年前から言われ、中国の現地旅行社に調査をお願いする。
最初の返事はもうないということ。
間違えかもしれないので他の旅行社にも2、3社確認する。どこもないという返事。
5年前、Kさんには残念ながらその様にお返事をした。
その代り、調べていくうちに見つかったH氏という同じ吉林倶楽部に住んでいた友人との再会の仲介をした。
Kさんはそのとき納得したようにみえた。
だけど昨夜の夜食ミーティングのときの話で思った。Kさんは吉林倶楽部の場所まで行って、自分の目でないのを確かめないとあきらめきれないんだな、と。
「庭が広くて柱も素敵で、レストランもあるし・・・いまだに夢に見るんですよ、吉林倶楽部」
Kさんの吉林倶楽部あればいいな、心から思った。
まずは家の近くにあった河南街にいく。この通りは歩行者天国で商店が左右に並ぶ賑やかな通り。
当時、Kさんはお母さんに手をひかれ買い物に来ていたという。
河南街より松花江の方に曲がり、そして最初の角を右に行ったところあたりにある。
河南街を歩く。
そして、左に曲がる。
道幅が当時よりだいぶん広くなっているという。
そして、右に曲がる。
・・・・・
・・・・・
・・・・・
ない。
位置的にはここらへんだ・・・そこには30年前から立っている住宅団地があった。
その住宅団地の広い敷地を考えると、吉林倶楽部はここにあったのではと思う。
その住宅の裏側には映画館があるという。
吉林倶楽部の映画館の位置もその裏側のほうらしい。偶然であろうか?
住宅団地の中を何か手がかりがないか探す。残っている建物がないか探す。
何かあってほしい。Kさんから聞いた、白っぽい建物の何かが。
・・・
「もういいですよ、西山社長。ここだと思います。感じるんですよね、帰ってきたと。ありがとうございます。」
Kさんの思い出の区切りがついた瞬間だったと思う。
記憶の旅は「無くなったことの確認」もある。寂しい確認であるが。
午後からは当時、Oさん家族が馬車で何時間もかけてピクニックに行った「豊満ダム」に行った。
今でもピクニックに来ている家族がたくさんいた。
その4へ続く・・・
2012年08月08日
65年ぶりの里帰り ~番外編 ライバル~
吉林には弊社のトゥクトゥクのライバルが多数走っていた。
当然、弊社のトゥクトゥクのほうがカッコイイと思ったが。
では、吉林使用のトゥクトゥクをどうぞ(^O^)/
すげぇ~、スクーターに板を張り付けている
当然、弊社のトゥクトゥクのほうがカッコイイと思ったが。
では、吉林使用のトゥクトゥクをどうぞ(^O^)/
すげぇ~、スクーターに板を張り付けている
2012年08月08日
65年ぶりの里帰り その2
天気予報は雨になっていたが、65年ぶりに訪れた4人のためにか、曇ってはいたが、雨が降ってはいなかった。
2日目、いよいよ記憶の旅が本格的にはじまった。
この緊張感は単なる観光ツアーとは違う。
ご本人たちの記憶を頼りに思い出の地をめぐるのであるが、65年の長いブランクのある記憶である。
その中には正確な記憶もあろうが、怪しい記憶もある、その確からしさを推測しながらトウさんに案内をしてもらう。
その地に65年前の思い出があるかどうか・・・。
まずは確実に残っているカトリック教会。今は天主教堂と名前を変えている。
100年の歴史を持つこの教会は今も堂々と松花江のほとりに建っていた。
この教会はKさん、Oさん、Sさんらの小学生のときも知っているんだと思うと不思議な感じがした。
「もっと大きいイメージがあったけどな」と。
小学生が見るのと、大人になってから見るのと目線も違うし、周りに大きな建物が出来たからでもあろう。
それでもこの教会は堂々としているなと感じた。
教会の前には松花江がある。
松花江には松江大橋がかかっている。
トウさんが橋げたを見てくれという。よく見ると手前と奥に橋げたが2つになっている。奥は古い。手前は新しい。
奥の橋げたはOさんらが住んでいた当時からの橋げたらしい。
橋の幅がその当時に比べ、2倍になったということ。
Kさんは「兄がこの橋を通って向こう側の中学校に通っていた」と、
Oさんは「あの2番目の橋げたのところで溺れかけた・・・」とつぶやく。
ここに住むものにとってこの川の記憶の領域はとても大きいようである。
それからOさんの遊び場だった孔子廟に行く。今は文廟という名前に変わっている。
文廟の入り口でここが昔、「孔子廟」という名前のところです。と門の前でトウさんが説明をする。
「こんなところやったかなぁ?う~ん」とOさん兄弟は記憶をたどる。
そして門をくぐり中に入る。
池がある。
「ここ!!ここ!!この池でよく遊んでた」「もっと大きいと思ってたけどなぁ」「でもこれは間違えない!」と顔をほころばせる。
Oさんの家はこの近所で家から歩いて来ていたらしい。
それであれば、少年時代に戻ってここから記憶を辿って家の場所を探しましょうと私が提案。
そして少年時代に戻ったOさんらは少年時代遊んだ後に家に帰るように歩いていく。
自分が65年前に住んでいた場所に帰るのである・・
たぶんここら辺というところを地図で確認する。ここだなと予想。
そこにはもう何も昔の名残はない。
だからここが本当にその家の場所かは分からない。
でも、私はここだと思った。
Oさんらの記憶が次から次に蘇り、口から出てくる。
近所のお金持ちの家の話、お菓子をもらった話、神輿の話・・・。
「ありがとう。先祖の供養になったみたいだよ」とOさんは私に言ってくれた。
その3に続く
2日目、いよいよ記憶の旅が本格的にはじまった。
この緊張感は単なる観光ツアーとは違う。
ご本人たちの記憶を頼りに思い出の地をめぐるのであるが、65年の長いブランクのある記憶である。
その中には正確な記憶もあろうが、怪しい記憶もある、その確からしさを推測しながらトウさんに案内をしてもらう。
その地に65年前の思い出があるかどうか・・・。
まずは確実に残っているカトリック教会。今は天主教堂と名前を変えている。
100年の歴史を持つこの教会は今も堂々と松花江のほとりに建っていた。
この教会はKさん、Oさん、Sさんらの小学生のときも知っているんだと思うと不思議な感じがした。
「もっと大きいイメージがあったけどな」と。
小学生が見るのと、大人になってから見るのと目線も違うし、周りに大きな建物が出来たからでもあろう。
それでもこの教会は堂々としているなと感じた。
教会の前には松花江がある。
松花江には松江大橋がかかっている。
トウさんが橋げたを見てくれという。よく見ると手前と奥に橋げたが2つになっている。奥は古い。手前は新しい。
奥の橋げたはOさんらが住んでいた当時からの橋げたらしい。
橋の幅がその当時に比べ、2倍になったということ。
Kさんは「兄がこの橋を通って向こう側の中学校に通っていた」と、
Oさんは「あの2番目の橋げたのところで溺れかけた・・・」とつぶやく。
ここに住むものにとってこの川の記憶の領域はとても大きいようである。
それからOさんの遊び場だった孔子廟に行く。今は文廟という名前に変わっている。
文廟の入り口でここが昔、「孔子廟」という名前のところです。と門の前でトウさんが説明をする。
「こんなところやったかなぁ?う~ん」とOさん兄弟は記憶をたどる。
そして門をくぐり中に入る。
池がある。
「ここ!!ここ!!この池でよく遊んでた」「もっと大きいと思ってたけどなぁ」「でもこれは間違えない!」と顔をほころばせる。
Oさんの家はこの近所で家から歩いて来ていたらしい。
それであれば、少年時代に戻ってここから記憶を辿って家の場所を探しましょうと私が提案。
そして少年時代に戻ったOさんらは少年時代遊んだ後に家に帰るように歩いていく。
自分が65年前に住んでいた場所に帰るのである・・
たぶんここら辺というところを地図で確認する。ここだなと予想。
そこにはもう何も昔の名残はない。
だからここが本当にその家の場所かは分からない。
でも、私はここだと思った。
Oさんらの記憶が次から次に蘇り、口から出てくる。
近所のお金持ちの家の話、お菓子をもらった話、神輿の話・・・。
「ありがとう。先祖の供養になったみたいだよ」とOさんは私に言ってくれた。
その3に続く
2012年08月07日
65年ぶりの里帰り その1
先日、毎日新聞に弊社で取り組んでいる旧満州の記憶の旅が掲載された。
それに興味を持った方々に全国各地より問い合わせをいただいた。
その中の神奈川県在住のOさん兄弟と妹のSさんと福岡在住のKさん、それに私とで8/4から記憶の旅に行ってきた。
今回の目的地は4人が育った吉林。
Oさん兄弟妹は成田から瀋陽へ。私とKさんは福岡から瀋陽へ行き、瀋陽で合流。今回、瀋陽は吉林に行くための通過点に過ぎない。
福岡便は定刻についたものの、それより約2時間遅く到着する予定であった成田便は大雨の影響を受け、さらに40分遅れたが、何とか無事到着。
瀋陽で降りられない場合は大連に行くことがあるのでヒヤヒヤしたが、ホッとする。
OさんらとKさんはここで初めて会う。私もOさんらとお会いするのは初めてなのだが、列車の時間が迫っているので挨拶もそこそこに急いで車に乗りこみ、瀋陽駅に向かう。
車の中でそれぞれ自己紹介をする。
みんな吉林育ちのグループ。実はOさん(弟)とKさんは偶然にも同じ年生まれで同じ吉林陽明小学校に通っていた。
同級生である。本当に偶然。
2人とも覚えてはなかったですが(笑)。
こうして65年ぶりの里帰りがはじまった。
瀋陽駅18:39発の中国新幹線で出発。吉林到着は21:56。
約3時間強の列車の旅。
本当は瀋陽駅の近くのレストランで食事をして乗るつもりだったが、飛行機の遅れで夕食を駅弁に変更。
25元のごはんだけが異常に多いおせじにもそれほどウマイとは言えない駅弁(これ1種類しかなかった)とぬるいビールをみんなに配る。ビールも冷えたのはないという。
まあ、吉林に到着してウマイ夜食でも食べに行けばいいさと思い我慢する。
そして吉林に到着。引き揚げて65年ぶりにふるさとに戻って来た。
飛行機、バス、列車と乗り継ぎ疲れているだろうが、みんなワクワクしている感じが伝わってくる。
吉林の案内人は昔の吉林の地理に詳しいトウさん。顔はイカツイ(笑)
吉林駅からホテルに向かう途中も、ここが昔の陽明小学校だったところですよと現在、吉林九中になっているところを指さし説明をする。その陽明小学校こそ4人が通っていた学校である。それに応じるようにKさん、Oさんらはそしたらこれが大馬路?とか昔の道路を尋ねる、興奮が伝わってき、私まで嬉しくなってくる。
そして、吉林市の真ん中を流れる河・松花江を渡り、ホテルへ到着。
Oさんらは新幹線の中でウィスキーをちびりちびり飲んでいたのが効いたのか、もう休むということ。
私とKさん、トウさんの3人で夜食を食べに24時間営業のお粥の店へ。
Kさんはなつめのお粥。私は適当に取ったつまみとビールを数本を夜食とする。
トウさんはもう夕食は食べたということでビールのみ。
ここでも地図を広げながら明日に備えての作戦会議がはじまる。
Kさんの家は吉林倶楽部という場所。倶楽部といってももちろんカラオケクラブなどではなく、広大な敷地の中に「住宅部分」「レストラン部分」「映画館」などがあった総合施設のようである。
Kさんの今回の一番の希望はそこに行きたいということ。そこは立派な建物だったので壊されるはずがない、きっと何らかの形で残っているはずだと・・・
私の事前調査では「もうない」と伝えてある。それでも自分の目で見ないことには納得がいかないのであろう。
私もあくまで人任せの調査なので、全部ではなくとも、少しでも何かが残っていればいいなと思いながらKさんの横でビールを飲んでいた。
その2に続く・・・
それに興味を持った方々に全国各地より問い合わせをいただいた。
その中の神奈川県在住のOさん兄弟と妹のSさんと福岡在住のKさん、それに私とで8/4から記憶の旅に行ってきた。
今回の目的地は4人が育った吉林。
Oさん兄弟妹は成田から瀋陽へ。私とKさんは福岡から瀋陽へ行き、瀋陽で合流。今回、瀋陽は吉林に行くための通過点に過ぎない。
福岡便は定刻についたものの、それより約2時間遅く到着する予定であった成田便は大雨の影響を受け、さらに40分遅れたが、何とか無事到着。
瀋陽で降りられない場合は大連に行くことがあるのでヒヤヒヤしたが、ホッとする。
OさんらとKさんはここで初めて会う。私もOさんらとお会いするのは初めてなのだが、列車の時間が迫っているので挨拶もそこそこに急いで車に乗りこみ、瀋陽駅に向かう。
車の中でそれぞれ自己紹介をする。
みんな吉林育ちのグループ。実はOさん(弟)とKさんは偶然にも同じ年生まれで同じ吉林陽明小学校に通っていた。
同級生である。本当に偶然。
2人とも覚えてはなかったですが(笑)。
こうして65年ぶりの里帰りがはじまった。
瀋陽駅18:39発の中国新幹線で出発。吉林到着は21:56。
約3時間強の列車の旅。
本当は瀋陽駅の近くのレストランで食事をして乗るつもりだったが、飛行機の遅れで夕食を駅弁に変更。
25元のごはんだけが異常に多いおせじにもそれほどウマイとは言えない駅弁(これ1種類しかなかった)とぬるいビールをみんなに配る。ビールも冷えたのはないという。
まあ、吉林に到着してウマイ夜食でも食べに行けばいいさと思い我慢する。
そして吉林に到着。引き揚げて65年ぶりにふるさとに戻って来た。
飛行機、バス、列車と乗り継ぎ疲れているだろうが、みんなワクワクしている感じが伝わってくる。
吉林の案内人は昔の吉林の地理に詳しいトウさん。顔はイカツイ(笑)
吉林駅からホテルに向かう途中も、ここが昔の陽明小学校だったところですよと現在、吉林九中になっているところを指さし説明をする。その陽明小学校こそ4人が通っていた学校である。それに応じるようにKさん、Oさんらはそしたらこれが大馬路?とか昔の道路を尋ねる、興奮が伝わってき、私まで嬉しくなってくる。
そして、吉林市の真ん中を流れる河・松花江を渡り、ホテルへ到着。
Oさんらは新幹線の中でウィスキーをちびりちびり飲んでいたのが効いたのか、もう休むということ。
私とKさん、トウさんの3人で夜食を食べに24時間営業のお粥の店へ。
Kさんはなつめのお粥。私は適当に取ったつまみとビールを数本を夜食とする。
トウさんはもう夕食は食べたということでビールのみ。
ここでも地図を広げながら明日に備えての作戦会議がはじまる。
Kさんの家は吉林倶楽部という場所。倶楽部といってももちろんカラオケクラブなどではなく、広大な敷地の中に「住宅部分」「レストラン部分」「映画館」などがあった総合施設のようである。
Kさんの今回の一番の希望はそこに行きたいということ。そこは立派な建物だったので壊されるはずがない、きっと何らかの形で残っているはずだと・・・
私の事前調査では「もうない」と伝えてある。それでも自分の目で見ないことには納得がいかないのであろう。
私もあくまで人任せの調査なので、全部ではなくとも、少しでも何かが残っていればいいなと思いながらKさんの横でビールを飲んでいた。
その2に続く・・・
2011年11月10日
坂の上の雲
日露戦争の陸上戦の最大の鍵となった203高地の日軍と露軍の争奪戦。
なぜ、203高地が欲しかったか、ここにあがるとよく分かります。
203高地の頂上から旅順湾までの距離がおよそ8km。
その当時の日本軍の大砲の飛距離がおよそ8km。ギリギリです。
203高地からは旅順湾がまる見えで、ここをとれば旅順湾に閉じ込めたロシアの東洋艦隊を撃ち取れる。
そういうことで激戦が行われた203高地。
旅順の観光ではココは絶対はずせないスポットです。
NHKで「坂の上の雲」が今年の年末、完結をします。ますます、ここに来る人が多くなるでしょうね。
坂の上の雲の舞台をめぐるツアーはこちら↓
http://yoka-yoka.jp/admin/entry.php?entry_id=764314
なぜ、203高地が欲しかったか、ここにあがるとよく分かります。
203高地の頂上から旅順湾までの距離がおよそ8km。
その当時の日本軍の大砲の飛距離がおよそ8km。ギリギリです。
203高地からは旅順湾がまる見えで、ここをとれば旅順湾に閉じ込めたロシアの東洋艦隊を撃ち取れる。
そういうことで激戦が行われた203高地。
旅順の観光ではココは絶対はずせないスポットです。
NHKで「坂の上の雲」が今年の年末、完結をします。ますます、ここに来る人が多くなるでしょうね。
坂の上の雲の舞台をめぐるツアーはこちら↓
http://yoka-yoka.jp/admin/entry.php?entry_id=764314
2011年11月09日
旅順の新観光
以前は旅順の観光といえば203高地・水師営会見所・東鶏冠山の3箇所のみでした。
旅順は開放地区ではなかったため、これぐらいしか行けなかったのであります。
もう何度、旅順には行ったか分かりませんが、この3箇所ばかりだったのでもう完全に飽きておりましたが・・・笑
2009年に旅順の観光が開放されて、見るところが増えました。
旅順港が真下に見える白玉山
日露戦争のとき、ボロ船を沈ませて湾をふさいだというその湾の入り口がここからはきれいに見えます。
旅順駅は小さく、色使いもなんかメルヘンチックでかわいらしい
これは客車です。
旅順博物館も重厚な作りでロシアの建築らしい
中国ではスパイとして悪名高い川島芳子の旧館、今は何も使われていません。なぞが多い方ですね。
それにしてもここ数年で旅順の高層ビルが見られるようになりました。
大連のベットタウンになるでしょうね。
年末にNHKで「坂の上の雲」の完結編があるので、それまでにここを訪れるとドラマが分かりやすいかも。。
行きたい方はお問い合わせください。
旅順は開放地区ではなかったため、これぐらいしか行けなかったのであります。
もう何度、旅順には行ったか分かりませんが、この3箇所ばかりだったのでもう完全に飽きておりましたが・・・笑
2009年に旅順の観光が開放されて、見るところが増えました。
旅順港が真下に見える白玉山
日露戦争のとき、ボロ船を沈ませて湾をふさいだというその湾の入り口がここからはきれいに見えます。
旅順駅は小さく、色使いもなんかメルヘンチックでかわいらしい
これは客車です。
旅順博物館も重厚な作りでロシアの建築らしい
中国ではスパイとして悪名高い川島芳子の旧館、今は何も使われていません。なぞが多い方ですね。
それにしてもここ数年で旅順の高層ビルが見られるようになりました。
大連のベットタウンになるでしょうね。
年末にNHKで「坂の上の雲」の完結編があるので、それまでにここを訪れるとドラマが分かりやすいかも。。
行きたい方はお問い合わせください。
2011年11月08日
旅順パン
旅順でこんなパン?を見ましたので注文してみました。
他の人が美味しそうに食べていたので・・・。
でっかいが中は空洞。
その空洞の中の生地の裏面にハチミツか何かがに塗ってあります。
結構、美味しい。女性たちはバクバク食べておりました。そして持ち帰りも。
他の人が美味しそうに食べていたので・・・。
でっかいが中は空洞。
その空洞の中の生地の裏面にハチミツか何かがに塗ってあります。
結構、美味しい。女性たちはバクバク食べておりました。そして持ち帰りも。
隣のわさびは気にしないでくださいね。
2011年11月08日
コーヒーブレイク
大連観光の合間のコーヒーブレイクは大連賓館の2Fの喫茶店はどうでしょうか?
大連賓館は日本統治時代は大和賓館とよばれ、満鉄経営のホテルでした。
100年たった今でもレトロで重厚感あるこの建物。
長い階段を上がると2Fに喫茶店があります。
そこの窓からは当時は中山広場の向こう側に海まで見えたそうです。
レトロな喫茶店で飲むコーヒーはまた趣深いものであります。
ここは夏目漱石も来たことのある喫茶店であります。ぜひ、大連観光の際には小休憩でいかがでしょう。
大連賓館は日本統治時代は大和賓館とよばれ、満鉄経営のホテルでした。
100年たった今でもレトロで重厚感あるこの建物。
長い階段を上がると2Fに喫茶店があります。
そこの窓からは当時は中山広場の向こう側に海まで見えたそうです。
レトロな喫茶店で飲むコーヒーはまた趣深いものであります。
レトロな感じでしょ。
昔のことを語りながら休憩
この窓の向こう側に昔は海が見えていた。
今は高層ビルで見えない。
40元のコーヒー
ここは夏目漱石も来たことのある喫茶店であります。ぜひ、大連観光の際には小休憩でいかがでしょう。
2011年11月08日
大連の旧日本人街
あと2、3年で古い建物はすべて取り壊されるということで大連の旧日本人街を散策しました。
今回一緒に来ているI氏のお父さんもこのどこかで住んでいたらしいです。
生きていれば110歳を越す明治生まれのお父さんに思いをはせながらI氏は散策をされておりました。
下の写真の建物はすべて満州時代の日本人が住んでいた建物です。
瓦屋根などが日本っぽいです。庭には柿の木がありました。
今回一緒に来ているI氏のお父さんもこのどこかで住んでいたらしいです。
生きていれば110歳を越す明治生まれのお父さんに思いをはせながらI氏は散策をされておりました。
下の写真の建物はすべて満州時代の日本人が住んでいた建物です。
瓦屋根などが日本っぽいです。庭には柿の木がありました。