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動画作成:向田 隆

  

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2017年11月17日

タヒチ パペーテ散策⑥

タヒチ散策の続き・・・

パオファイ公園




昔、大洋を航海した双胴船カヌーの出発や到着の時に偉大な儀式が行われたこの場所は栄光の航跡の記憶を保持しながら、現在では散歩が出来て子供たちの遊び場も
設けられた公共の公園となっています。
レースに使われるアウトリガ―カヌーがビーチに置かれてい、毎日朝昼と夕暮れ時には男性と女性の選手たちが先祖と同じ心でカヌーの練習をするためにラグーンに出かけます。

パペーテ港




パペーテ港には大きなパスと深いインレットがあります。
19世紀の中旬にパペーテ港の開発を開始し始めました。
1843年、ブルア提督はフランス政府にパペーテ市を首都として、そして港として選択することを提案しました。
1963年に太平洋実験センター(CEP)の到着と共に港にパシフィック区域にしては箸しく現代的なインフラを取得しました。
現代旅客港で、特にモーレア島の姉妹島との交通量により、フランスの第二の港になっています

海軍の司令官



フランス海軍は最初ロイヤルと次に共和党的にフランス領ポリネシアの歴史の中で重要な場所を確保しました。
都市の歴史的中心部に位置して、港の近く、通りの名は海軍の影響を反映する地域で、この壮大な建物海軍の司令官で長年の建物でした。
海軍のアーティストによってデザインされて、そのファサードは19世紀の軍事建築の完璧な例により非常に対称的な構造です。

ブーゲンビル公園




1934年7月に作られ、ベルギーの王、アルバート第1世の名誉の名だったこの公園の長い歴史の証人の壮大な木々を眺めることができます。
1968年4月に公園ブーゲンビルの胸像が設立されたためその名前になりました。
公園の最も特徴的な樹木の一つはパンの木(テュムウル)で、実一つだけで家族全員を食べさせることが出来るので、ヨーロッパの発見者が魅力を感じ驚きました。

ブーゲンビルの胸像




1729年にパリで生まれたルイ・アントワーヌ・ド・ブーゲンビルは世界旅行のために自然科学者、アーティストや天文学者を伴って1766年に航海しました。
フリゲート艦ラ・ブドーズに乗って1768年4月に到着した彼は、タヒチ島に上陸した最初のフランスの航海士です。
1909年に建築家のベルトーネがデザインしたブーゲンビルのブロンズ胸像はもともと海軍の建物の前に置かれていました。
1968年にブーゲンビルの胸像が公園に移転されました。

ゼレエのキャノン




タヒチにも戦争がありました。
ブーゲンビルの胸像の左側にある大砲は砲艦のゼレエのものです。
1914年に南シナ海からドイツ巡洋艦「グナイゼナウ」と「シャルンホルスト」は石炭の補給のためにパペーテの沖に現れました。
しかしデストトモ司令官は石炭の倉庫を燃焼させる命令を出しました。
空に上昇する暑い黒煙を見て、ドイツの砲艦はポートにあったゼレエを砲撃しました。
大砲は木材で作られた民間の建物を燃やして、巨大な火事となって、街の1/3ほ破壊しました。
ドイツの艦隊は石炭無で帰りました。

シーアドラーのキャノン




一部の船員のよって行われた゛クリーン゛な戦争記念。
郵便局に最も近い大砲は第一次世界大戦中にドイツのシーアドラ―に乗って有名になったフェリックスフォンルックネル伯爵によって命じられた14連合国の船舶を
死傷者なしに攻撃したものです。
この海賊船は83メートルの長さと1600トンの4つの鋼のマストを持ったスクーナーでした。
この静かに見える船は1200馬力のエンジンと強力な武器が装置されていました。
最後は愚かにも風下諸島のモぺリアの小さなサンゴ環礁で1917年に遭難しました。

マティスとホテル・スチュアート




伝統的な場所は。
フランスの画家アンリ・マティスは(1869-1954)61歳でタヒチに到着しました。
1930年3月29日にパペーテの港に上陸したチュスチュアートという最新のホテルに宿泊しました。
米国領事館に隣接してスコットランドのウィリアム・スチュアートと彼の妻がオーナーでした。
マーティスはパペーテのすべてが眺められる海に面した3階の部屋に泊まりました。
そこで窓から彼は最も有名な絵画の一つ、パペーテの港の眺めを描きました

公設マルシェ、マプルアパライタ




必見の場所です。
生き生きしたこの素晴らしい場所は、カラフルで感情に溢れていて、歴史的、文化的、特に社会的なパペーテの中心です。
午前6時からにぎやかな雰囲気の毎日です。
パンの木の実バナナ、タロイモ、サトイモなどの地元の果物や野菜がカラフルなスタンドに並べられています。
2階には多数のクラフトショップがあり、食物繊維で出来た帽子や貝殻のネックレスなどを販売してします。

パペーテ市役所




1890年5月20日の法律で制定され「3500人の人口の保ほぼ皆がフランス国籍を持っていて、周辺の島の主な商業の中心で、事実上の都市の重要性があることによって
パペーテ市が制定されました」。
その100周年を記念して、パペーテはフランス領ポリネシアの首都にふさわしい新しい市庁舎を造りました。
スタイルは19世紀のコロニアルスタイルの建築で、例にした女王の旧宮殿によく似ています。


※説明案内はタヒチ観光案内所の地図より抜粋しております。

  

Posted by タカ at 16:34Comments(0)タヒチネタ

2017年11月14日

タヒチ パペーテ散策⑤

タヒチアン・アカデミー・ファレヴァアナア




1972年に設立されたタヒチアン・アカデミーファレヴァアの目的は語彙、文法やスペルの標準化を含めて、タヒチアンの言語を保護し、強化することです。
また太平洋で話されている他の言葉の起源との関係を研究します。
そしてタヒチの言語に昔ながらの慣習を獲得する称賛を与えるためにとても重要な仕事でもあります。

薬剤師の家




この家は金属のギャラリーと高い天井の小さな部屋を持ち、19世紀植民地時代の病院建築の典型的な例です。
近隣に建築されたヴァイアミ病院の薬剤師の家でした。
1995年の環境の家にする作業中にいくつかのヤシの木特にポリネシアの風土のプリトチャルディアが植えられました。

コロニアルスタイルのヴァイアミ病院





1847年にラヴォ総督は兵士の部隊と共に到着して、コロニアルスタイルの病院を含めてパペーテの最初の恒久的な建物を建てさせました。
当時スタッフは3人の医師、1人の薬剤師とクリュニーの聖ヨセフの尼僧10人ぐらいから成っていました。
第二次世界対戦後、病院は130ベッドでは不十分になってきました。
1970年すべての活動はママオ病院へ移されて、ヴァイアミ病院は、結核と神経精神疾患の治療に特化されました。
1995年に病院はピラェ市に転送され、施設は行政サービスを収容するために使用されています。

真珠博物館




熱く真珠に人生を捧げているロバート・ヴァンの庇護で、この博物館は真珠の自然の美しさとすべての精神的な豊さの両方を紹介するために設計されています。
美術、歴史、技術、神話、哲学、宗教、詩と地理経済学・・・
ホモサピエンスと共に存在している真珠は自然の要素と勤勉な人間のエンジニアリングとの結合させ、物質と精神を共生させています。

パオファイのプロテスタント教会





パオファイのプロテスタント教会はフランス領ポリネシアの福音教会の中心のようなものです。
1906年にパペーテの創設者によって建てられて竹と織葉の最初の礼拝堂、小さくなりすぎたシロアムの古代寺院の場所に牧師のクルックによって1981年に建てられました。
しかし尖塔は当初のまま残されています。
日曜日のミサの時には、晴れ着を着て食物繊維の美しい帽子を身に着けて集まる熱気のある信者が歌う美しい讃美歌を聞くことができます。




  

Posted by タカ at 09:34Comments(3)タヒチネタ

2017年11月10日

タヒチ パペーテ散策④

パペーテ散策の続き・・・

30か所の観光名所?を地図を片手に歩き回る・・・

そんな日本人観光客は誰もいない。

タヒチの正しい観光ではない、そんなことは分かってるが、まだ散策は続けた。

ゴーギャンバニヤンの木




特別な木です。「オラ」と呼ばれる樹齢300~400年のガジュマルの木はいくつかの理由で保護され大事にされています。
先ずはおそらく人間に関連していない存在理由で、市内で目に見える唯一の在来種であるということです。
一方、植民地時代の名士のように画家のポールゴーギャンば歴史的なガジュマルの木゛の枝の高さ2メートルのプラットフォームで毎日アブサンを味わっていたからです。

ドゴール将軍の記念碑





誰がこの歴史を覚えているでしょうか?
少し思い起こして、再発見させましょう。
1940年6月18日の有名なロンドンからのドゴール将軍の呼びかけの後、タヒチは自由フランス軍に参加する最初のフランス植民地となりました。
ボランティアのポリネシア人はアフリカで、特にビール・ハキムの栄光の戦いなどで第二次世界大戦に参加しました。
1956年と1966年に二回パペーテを訪れたドゴール将軍は非常に人気がありました。
記念碑は中央に自由フランスのシンボルのロレーヌの十字架を形成する2つのポリネシアのカヌーを表すことになっています。

元ブルア大通り




元ブルア大通りのポウヴァナア・ア・オオパ通りは恐らくパペーテで作られた最初の道でしょう。
道は2つのセクションに分かれていました:ブーゲンビルストリート(最初の交差点からウォ―ターフロントまで)、そしてリュレーヌブランシュ。
1880年に二つのセクションはブルア大通りになって、2007年に自治を求めていたポウヴァナア・ア・オオパ氏の名前に名前を改名されました。
雄大なマルマルの木(アルビジアサマン)の並んでいるこの通りは市内で最も美しい通りの1つです。
政府の事務所などがそこに建てれいるのは不思議ではありません。

戦争記念碑




ブルア通りのリュ・デ・ポアリュの交差点にある第一次世界大戦や韓国、マダガスカル、インドシナと北アフリカで戦闘して没したポリネシア人の兵士の名誉記念碑です。
ネイティブの兵士は「ポアリュ」毛深いと呼ばれていました。
第二次世界大戦中、太平洋の大隊でポリネシア人の兵士は約90人が戦死し、彼らの犠牲とその追悼のため毎年5月8日に特別な賛辞が行われます。

大統領官邸






2000年6月28日に、フランス領ポリネシアの元大統領ガストン・フロスは前ブロシュ兵舎の敷地だった場所に大統領官邸の新しい建物を建築しました。
軍管区はビール・ハキムで殺された太平洋における主大隊ブロシュの追悼のために改名されました。
この建築はモダンな快適さの要求に適応しながら19世紀植民地時代の軍事建築の原則を維持するようにデザインされました。
この建物は57の議員によって選出されるフランス領ポリネシア政府の大統領の官邸です。


経済社会評議会




国の機能に不可欠な場所。このモダンな建物は伝統的な建築の要素(漆喰、レンガ、タイル)古いコロニアルスタイルの建物の様式が組み込まれています。
フランス領ポリネシアの第四機関である経済社会及び文化の評議会(CESC)の51メンバーの館です。CESCは政府とフランス領ポリネシアの議会への諮問的な役割をもっています。
原案または提案された゛国の法律゛に意見を与え、彼が検討するトピックについての提言を含むレポートを準備します。


まだ散策は半分・・・続く・・・




  

Posted by タカ at 16:49Comments(0)タヒチネタ

2017年11月10日

タヒチ パペーテ散策③

タヒチ出張の報告の続き・・・

パペーテの市内散策。
②でも言ってるが、やはりタヒチはリゾートであり、市内散策より、海辺でのんびりするのが正しい過ごし方だ。
だが、どんなものがあるのか周ってしまった。

議会の庭







長い間秘密の場所でした。
女王ポマレIVの庭は、現在の議会の敷地になっている王宮を囲んでいました。
1858年に町の名前になったパペーテやヴァイエテ川の元になる蚊の多い沼地にその庭が設けられました。
女王の秘密の庭は、パンノキ(テュムウル)、マンゴの木、アボカドの木、実に棘のあるコロソルの果物の木、
そしてガジュマルの木と美しい熱帯特有のバニヤンの巨大な木、様々な種類の植物を見ることが出来ます。
いくつかのカーリーや魚の尻尾の形した葉のあるヤシの木もあります。

王女の泉




澄んだ水は爽快です。
ヴァイエテ又はパペーテの源泉が美しい庭園の中心にあります。
タヒチ人はバスケットに入れたひょうたんをもって、特に純粋なこの水を汲みに来ました。
唯一この泉の水かココナツの水しか飲まなかったポマレIV王女は毎朝泉の周りにある自然のプールで水浴びをしていました。
召使は王女のために朝のお風呂にモノイを入れて、結局昼食の時間まで王宮の少女たちとお喋りして過ごしていました。
供の者はさらに下流で遊んでいました。


高等弁務官の公邸





60年代にパペーテで行われた大規模な改装工事により総督の邸宅は壊されて、フランス領ポリネシア5つの諸島を象徴する急勾配な屋根を持つ ゛ネオポリネシア゛スタイルの
建物で1966年に再建されました。
この邸宅は現在公共の秩序と法の尊重、国益を担当するフランス政府の代理人として一般的に「オッセール」と呼ばれているフランス共和国の高等弁務官の公邸兼自宅になっています。

まだ歩き続けます・・・
  

Posted by タカ at 16:27Comments(0)タヒチネタ

2017年10月24日

タヒチ パペーテ散策②

タヒチでの無理やりの名所観光の続き・・・

再度いうが、タヒチではビーチでのんびりするのがいい、ホテルでゆったりするのがいい。。face02

名所なんかまわらなくていい・・・

でも、歩いてまわってみた

タラホイ広場




昔の平和と威信のシンボルで、偉業お成し遂げたヒヴァという戦士や戦略的同盟を結んだ偉人の「アリイラヒ」の集まりの場でした。
自然と植民地時代にはパペーテの政治の中心になって総督の住むところになりました。
以前は音楽堂がありました。
1878年にプランシュ総督のよって作られて、毎週木曜日にファンファーレを聞くために大勢の人が集まりました。
公館の前の芝では1966年までパリ祭の祭りに欠かせない歌と踊りのコンクールが行われていました。


ポヴァナア・アオオパの胸像




歴史的に有名な偉人です。
1895年5月10日にフアヒネ島で生まれた自治論者のリーダーは、1949年と1958年の間に代議士となり、1971年から1977年まで上院議員でした。
彼の発言は植民地システムの乱用とあさましさを非難するということでした。
彼は刑務所に入れられて、亡命もしました。
1977年7月にフランス領ポリネシアに自治権を与えられた前に彼の考え方の勝利体験できないまま。その数ヶ月前に死亡しました。
この胸像は多くの有名なフランスの政治家の胸像を作った、フランシュ・コンテ出身の彫刻家、ジョルジュウドーの作品です。


フランスポリネシアの会議




過去も現在も重要な決定が行われる建物の前で、少し政治の話しましょう。
国の普通選挙で選出される唯一の機関、フランス領ポリネシアの会議は、5つの諸島から57人の代議員で構成されています。
フランス領ポリネシアの行政を会議の審議によって決定します。
また「国の法律」いわゆる立法措置を採択し、国の予算と会計を決定し、大統領と政府の行動を制御しています。
議員は直接普通選挙によって5年間の任期で選出されています。


まだまだ歩いての観光は続く・・・





  

Posted by タカ at 16:31Comments(0)タヒチネタ

2017年10月24日

タヒチ パペーテ散策①

タヒチは南太平洋に浮かぶ島々。

新婚旅行の人気の地である。
そこをグループでも販売できないかということで視察に行ってきた。

私の感想はグループでいくなら少人数でいき、きれいな島に行き、いいホテルに泊まり、
綺麗な海をみて過ごし、時間をきにせずくつろぐのがタヒチにはふさわしいかな?と思った。

だから新婚旅行にはいいんだな。






そんなタヒチで観光をしてみた。

パペーテで観光案内の地図をもらい、観光地?名所?となっている市内の30か所を歩いてまわってみた。

前日、モーレア島でも3時間歩き、その前も市内を歩き回り、この30か所観光で2時間歩き、また親指の爪が1枚丸ごとはがれてしまったface07

パペーテ散策(説明は観光案内所でもらった地図より)

パペーテ市のカテドラル




歴史ある場所で、パペーテ市の中央に建てられています。
タヒチ島の一周道路のキロ数表示「PK」の始点ともなっています。
この大寺院の建設は1844年から施工されて1875年のクリスマスイブに完成しました。
建築形式はゴチック建築です。
パペーテ市と共に1906年の津波に耐えて1914年9月22日にドイツの巡羊艦による砲撃を受けて、1983年の台風と1987年の暴動にも耐えました。
そこでは人々が数世代にわたり洗礼を受けて、聖体拝領の儀式も行われています。

バウンティーのフレスコ画



タヒチまでパンの木の実(ウル)の苗木を取りに来たブライ船長のバウンティー号の伝説がフレスコ画に描かれています。
イギリスの植民地にこの木を運んで、それを植えて安く奴隷に食事を与える目的で訪れたのです。
しかしタヒチ島を出た後、船で反乱が起こり、その計画は台無しになりました。
モザイクのフレスコ画は45度の二つのパネルで出来ていて、建物の建設の時にラべロ氏によって作られた二階建ての作品です。

マラウ王女の家



1875年に、15歳のマラウ・サルモンは35歳の王子のアリイアウエー・ポマレと結婚しました。
2年後王子は王様になりました。
しかし王様の死後、マラウは王女になりました。
1900年に現在の郵便局の隣に木製の家を建てたお母さんのアリイタイマイと同居しました。
「王の小屋」と呼ばれた、この目立たない家に三人の子供と生活しながら、国民の口頭の伝説を書き。研究や翻訳活動を続けました。


パペーテ散策は続く・・・  

Posted by タカ at 14:40Comments(0)タヒチネタ